"生″を正しい視野で
捉えていただきたい。
その中で
"死″が果たしている役割を
理解していただきたいと思います。
人間はあまりに
永いあいだ
死を生の終りと考えて、
泣くこと、悲しむこと、
悼むこと、嘆くことで
迎えてきました。
私どもは
ぜひとも無知--
死を生の挫折、愛の終局、
情愛で結ばれていた者との
別れと見なす無知を
取り除きたいのです。
そして
死とは
第二の誕生であること、
生の自然な過程の
一つであること、
人類の進化における
不可欠の自然現象として
神が用意したものであることを
理解していただきたいのです。
死ぬということは
生命を失うことではなく
別の生命を
得ることなのです。
肉体の束縛から解放されて、
痛みも不自由も制約もない
自由な身となって
地上での善行の報いを受け、
叶えられなかった望みが
叶えられるより
豊かな世界へ赴いた
人のことを悲しむのは間違いです。
死の関門を通過した人は
カゴから放たれた
小鳥のようなものです。
思いも寄らなかった
自由を満喫して
羽ばたいて行くのです。
人間が死と呼ぶところの
看守によって
肉体という名の監獄から
出させてもらい、
(原則として)
それまでの肉体に宿っているが故に
耐え忍ばねばならなかった
不平等も不正も
苦しみも面倒もない、
より大きな生へ向けて
旅立ったのです。
霊本来のかぎりない自由と
崇高なよろこびを
味わうことになるのです。
苦痛と老令と疲労と
憂うつとから
解放された人を
なぜ悲しむのでしょう。
暗闇から脱して
光明へと向かった人を
なぜ悲しむのでしょう。
霊の本来の欲求である
探求心を
心ゆくまで
満足できることになった人を
なぜ悼むのでしょう。
それは間違っております。
その悲しみには
利己心が潜んでいます。
自分が失ったものを
悲しんでいるのです。
自分が失ったものを
自分が耐えていかねばならないこと、
要するに
自分を包んでくれていた
愛を奪われた、
その孤独の生活を
嘆き悲しんでいるのです。
それは間違いです。
もしも霊的真理に目覚め、
無知の翳みを
拭い落とした目でご覧になれば、
愛するその方の
光り輝く姿が
見えるはずです。
死は決して
愛する者同士を
引き離すことはできません。
愛はつねに
愛する者を求め合うもの
だからです。
あなた方の悲しみは
無知から生じております。
知識があれば
愛する者が
以前よりむしろ一段と
身近かな存在と
なっていることを
確信できるはずです。
霊的実在を
悟ることから生じる
よろこぴを
十分に味わうことが
できるはずです。
皆さんもいずれは
寿命を完うして
その肉体に
別れを告げる時がまいります。
皆さんのために
尽くして
古くなった衣服を
脱ぎ棄てる時が来ます。
霊が成熟して
次の進化の過程へ
進む時期が来ると
自然にはげ落ちるわけです。
土の束縛から解放されて、
死の彼方で待ちうける
人々と
再会することができます。
その目出たい
第二の誕生に
まとわりついている
悲しみと嘆き、
黒い喪服と重苦しい雰囲気は
取り除くことです。
そして
一個の魂が
光と自由の国へ
旅立ったことを
祝福してあげることです。
『シルバー・バーチの霊訓(3)』
潮文社、1986、
pp.44-46
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